建築家として、まちの“居場所”をデザインする
栗生さんの視点には、常に「空間」と「人」の関係がある。建築とは本来、人の行動や感情を受け止める器だ。だからこそ、銭湯をただの“施設”ではなく、“居場所”として再定義しようとする。
「銭湯って、建物の中に“まち”があるような場所なんです。待合で誰かが新聞読んでて、脱衣所で会話が始まって、湯船で知らない人と仲良くなったり。ああいう空間の多層性って、建築的にもすごく面白い」
番台のある構造、男女の動線の違い、季節や地域による設備の差。銭湯という空間には、そこに暮らす人々の文化や歴史が織り込まれている。それは、単なる設計図では拾えない「生きた空間」だ。

「今の都市って、どこも似たような街並みで、“ここじゃなきゃいけない理由”がどんどんなくなっている気がするんです。でも銭湯には、“その土地にしかない何か”がある。それが、まちを面白くしてくれるんじゃないかって思うんです」
銭湯がまちに残るということは、そのまちが誰かにとっての“居場所”であり続けること。栗生さんの言葉には、設計図だけでは描けない都市の未来が重なっていた。

続ける理由がある限り、終わらせない
「銭湯って、“残念な未来”に向かってるものとして語られがちだけど、私はそうは思わないんです」
栗生さんは、やわらかく、でもまっすぐにそう言った。廃業する銭湯のニュースが続く中で、それでも自分がこの活動を続ける理由。それは、目に見えない“価値”を信じているからだ。
「銭湯って、タイパとかコスパとか、そういう言葉では測れない場所なんですよね。たとえば、たまたま隣に座った人とおしゃべりしたり、番台の女将さんと他愛ない話をしたり。そういう時間が、自分でも気づかないうちに心を整えてくれている。人と人のあいだに、ふわっとした豊かさが流れてる場所なんです」

一人ではなく、誰かと共にいる。急がず、効率を求めず、ただ湯気の中で自分を緩める時間。そんな場所がまちにひとつあるだけで、そのまちは、少しだけやさしくなる。
「そういう場があると、自然と関係性が生まれていく。結果的に、それが地域の“生態系”みたいなものを回復させていくと思っていて。誰かが誰かを気にかけるとか、ふと顔を見かけるとか、そういうことがごく自然に起こるような空気が、銭湯にはあるんですよね」
無理に特別な場所にしようとしなくていい。ただ、そこに“あって当たり前”の風景として、銭湯がまちの中に在り続けること。それを支え続けることこそが、栗生さんの戦いであり、願いだ。
「“この銭湯が好きだから続けたい”っていう人がいたら、私たちはその気持ちに応えたい。それだけです。あとは、それをちゃんと“続けていける”って思える環境を、少しずつ整えていけたらって思っています」
小さな灯りが、また一つ、まちのどこかで灯るように。
湯気の向こうに人の暮らしがあり、やわらかい関係性が息づく風景を守るために。
せんとうとまちは今日も、静かに、そしてしなやかに、その湯を沸かし続けている。