「当たり前にあった」銭湯が、当たり前ではなくなった
「昔はここ、アーケードがあったんですよ。八百屋、豆腐屋、魚屋、洋品店……それはもう賑やかな通りでした」父・和治さんは、かつての神明通り商店街をそう振り返る。
今ではそのアーケードも撤去され、営業を続けているのは神明湯と数軒の個人店舗のみ。銭湯も、かつては近隣に3軒あったが、営業を続けているのは神明湯だけだ。「銭湯があるのが当たり前じゃなくなった」と和治さんは静かに言う。
「昔はね、湯を沸かしていれば勝手に人が来てくれた。でも今は、そうじゃない。生活も価値観も、全部変わった」

常連客の高齢化が進む一方で、サウナブームをきっかけに若者が訪れるようになった。しかしその波も一時的なもので、銭湯そのものの価値を維持するのは簡単ではない。「水道光熱費、燃料費はどんどん上がるし、修繕も大きな出費です。でも、続ける意味があると信じてる。町の風景を、できるだけ残しておきたい」淡々と語る和治さんの言葉には、生活と共にあった銭湯を“守る”という覚悟が宿っていた。


「なくなる方が不自然だった」──三代目が見てきた銭湯のある日常
息子の健輔さんにとって、神明湯は生まれ育った家そのものだった。「脱衣所で寝転んだり、裏口から風呂に入ったり、そんな生活が当たり前でした。銭湯は“建物”じゃなくて“生活空間”だったんです」彼が家業である銭湯を継ぐと決めたのは、ごく自然な成り行きだった。
「正直、どんな仕事よりもしっくり来た。自分が何か特別なことをしようとかじゃなくて、ここがなくなるのが嫌だった。それだけです」

継承には、現実的な課題も多い。父の代から続く経営のノウハウ、地域の人との関係、そして今の時代に合ったサービス。健輔さんは、あくまで「父のやり方を尊重しつつ、自分の感覚で更新したい」と言う。「父の背中はずっと見てきました。でも、それをそのままコピーしてもうまくいかないかもしれない。今の人が“来たい”と思える場所にしたいんです」
そんな彼の姿を、和治さんもまた穏やかな笑顔で見守る。「若い人がやってくれるのは、やっぱり嬉しいですよ。昔ながらのやり方に固執せず、今の時代の風を入れてくれたらいい。私はもう“後ろから支える”側ですから」
銭湯が生き残るには、ただ懐かしむだけでは足りない。時代に応じた更新が必要であり、次の世代が自由に描ける“余白”が必要なのかもしれない。

煙突が立つこの町で、もう一度“流れ”をつくりたい
神明湯の煙突は、住宅街の中にひときわ目立ってそびえ立つ。町の人にとっては、「今日も銭湯がやっている」という目印でもある。「煙突がある風景は、残していきたいですよね。町の“シンボル”みたいなものですから」
だが、その町は今や静まり返っている。かつての商店街は高齢化と後継者不足で空き店舗が増え、通りは閑散としている。そんな中で、健輔さんは銭湯を起点にした「地域再生」のビジョンを抱いている。
「神明湯に来ることで、人がこの通りを歩く。それがもう一度、この場所に流れを生むきっかけになると思うんです」イベントの開催、空き店舗の活用、地域との連携──。構想はまだ始まったばかりだが、彼は小さく、しかし確かに歩を進めている。
「この通りで、もう一度人が集まって笑ってる光景を見てみたい。それを目指してやっていきたいんです」
